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みんなの一歩 17人目 〜樗木 真理さん〜【前編】

こんにちは!鹿児島県共生・協働センター、ココラボです。

 ココラボでは『みんなの一歩』と題して、鹿児島県内で地域活動や社会貢献に取り組む方々へのインタビューを行い、その想いや背景を紹介しています。鹿児島県内には、多種多様な方々がそれぞれのかたちで活動しており、そこに至るまでの過程もまた一人ひとり異なります。『みんなの一歩』では、いま活動している方がどんな想いでその取り組みを続けているのか、そして活動を始めるきっかけとなった“最初の一歩”は何だったのかを丁寧に伺っています。この企画が、これから何かを始めたいと思っている方にとって、小さな後押しとなれば。そんな願いを込めて続けています。展示はセンターに入ってすぐ左手の壁際に常設していますので、ふらっと立ち寄った際には、ぜひご覧ください。

 

今回ご紹介するのは、17人目となる 樗木 真理(おてき まり)さん。

種子島出身で、現在はバスガイドや観光の仕事に携わりながら、インタビューライターとしても活動されています。さらに今は、島の人や地域の魅力と、外から訪れる人をつなぐ旅づくり「種子島たからつむぎ」にも取り組んでいます。

いまの樗木さんの活動を見ていると、最初からまっすぐ「地元のために」「島を盛り上げたい」と歩いてきた人のようにも見えます。けれど、お話を伺うと、そのはじまりは少し意外でした。種子島に戻ったのは、「帰りたかったから」ではなく、むしろ“取りたくない選択肢”だったから。

 

先が見えないことへの不安。

これまで描いてきたキャリアとのずれ。

地元ならではの人との距離。

 

そんな気持ちを抱えながらも、あえてUターンという選択をした先で、樗木さんは少しずつ、自分の仕事や島との関わり方を見つけていきました。

 

“変わりたいけれど、どう変わればいいかわからない”。

 

そんな気持ちを抱えたことのある人にとっても、きっと何か重なるものがあるはずです。

この記事は前編です。後編では、樗木さんが今取り組んでいる「種子島たからつむぎ」や、その先に見ている景色についてご紹介します。

 

【後編はこちらから】

 

【樗木 真理さん プロフィール】

1993年、鹿児島県種子島出身。宮崎公立大学卒業後、教育系広告代理店に入社。名古屋で3年間、企画営業として県内の大学・短大の学生募集広報やブランディング活動に従事した後、東京の人事部へ異動。新人育成や福利厚生、社内報の企画・運営を担当する。

その後転職し、関東にて県が委託する就活イベントの運営サポートに関わる傍ら、副業で女性起業家のSNSサポートを開始。2022年頃より本格的にインタビューライターとして活動を始める。オンラインで仕事ができるようになったことを機に地元へUターンし、現在は観光ガイドなども行っている。

 

人の人生の選択に関わる仕事がしたかった

樗木さんは、種子島の西之表市出身。高校卒業までを島で過ごし、その後、宮崎公立大学へ進学しました。

もともとは海外への憧れが強く、国際協力の現場で働きたいという思いも持っていたそうです。大学では交換留学でニュージーランドへ渡り、国際関係に加え、ツーリズムの授業も受けたそうです。

卒業後に選んだのは、教育系の広告代理店でした。

 

「人の人生の選択に関わる仕事をしたい、という想いがずっとあって。地方出身だったこともあって、情報の差で見える選択肢が変わってしまうことを感じていたんです。卒業後にどこへ進むかって、人生の大きな分かれ道だなと思っていました」

 

名古屋では、大学や短大の学生募集広報、ブランディングの提案に携わる企画営業として3年間勤務。その後、異動で東京へ移り、人事部で新人育成や社内報づくりなどを担当しました。

“広告”という仕事のなかでも、樗木さんが惹かれていたのは、華やかさよりも誰かの選択や変化のそばにいられることだったのかもしれません。

 

「その人の人生を発信することで、誰かが影響を受けて変わっていくことがあるじゃないですか。そういう、人の変化を見るのが好きだったんです」

東京で立ち止まり、「一番取りたくない選択肢」を選んだ

その後、樗木さんは転職し、県が委託する就活イベントの運営サポートにも関わるようになります。副業では、女性起業家のSNS発信のサポートも始めていました。

一見すると、着実にキャリアを重ねているように見える日々。

けれどその裏で、自分の内側は少しずつ、見えなくなっていったと言います。

 

「自分は何がしたくてここにいるのか。何が好きで、何が嫌なのか。だんだんわからなくなっていって」

 

コロナ禍も重なり、在宅勤務が増え、東京にいる意味も見えづらくなっていきました。仕事と家の往復のような毎日。変えたい気持ちはあるのに、何をどう変えたらいいのかはわからない。

そんなときに浮かんだのが、地元・種子島に戻るという選択肢でした。

 

「戻りたいから戻る、という感じではなかったです。むしろ、今ある選択肢の中で一番取りたくないものを取ってみよう、という感覚でした」

 

“取りたくない”と言っても、嫌いだったわけではありません。ただ、そこには先が見えない怖さがありました。

島で働く未来を、人生で一度も描いたことがなかったこと。

島ならではの近い人間関係や、知り合いにすぐ会う感じが少し苦手だったこと。

そして、都会で生きていくキャリアを当たり前のように想像していたこと。

 

「この延長線上にいても、あまり変わらない気がして。だったら、一番見えない方を選んだ方が、良くも悪くも変化するかなと思ったんです」

子どもの頃には気づかなかった島の表情が、Uターン後に見えてきました。

帰ってみて初めて見えた、地方の“多様性”

2021年秋ごろ、樗木さんは種子島へUターンします。

最初から観光一本で動いていたわけではありませんでした。女性向けの交流イベントを開いたり、地域で活動する人や移住者がつながる小さな場をつくったり。そうしたことを個人で少しずつ始めながら、同時に、いのもと観光で働き始めました。

きっかけは、求人票にあった「観光コンシェルジュ」という枠。ところが、入ってみると「バスガイドもやってくれない?」と言われたそうです。

 

「本当にたまたまでした。都会と比べると島での就職は選択肢が限られている中で、「自分のこれからのキャリアにとってより良い道はどれだろう」と考えていたときに出会ったのが観光の仕事でした。」

 

でも、バスガイドの仕事を始めたことで、樗木さんの中で種子島の見え方が変わっていきます。

案内するためには、島の歴史や文化、暮らしを知る必要がある。学べば学ぶほど、子どものころには見えていなかった種子島の奥行きが見えてきました。

 

「種子島って、鉄砲伝来とか宇宙とか、知名度はあるんです。でも、それだけじゃない魅力が本当にたくさんあって。魅力がありすぎて、逆に尖らせにくいぐらいなんです」

 

さらに、島での暮らしを通して、もうひとつの気づきもありました。

 

「地方って、すごく多様性があるなって思いました」

 

都会にはたくさんの人がいて、自分と近い価値観の人とも出会いやすい。

でも地方では、小さなコミュニティのなかに年代も職業も考え方も違う人がいて、しかも関わらずにはいられない。それはときに息苦しさでもあるけれど、同時に、人と向き合う力を育ててくれる場所でもあると感じたそうです。

 

「昔は自己表現があまり得意な子どもではなかったこともあり、コミュニティに溶け込むことや、人との関わりに戸惑いや息苦しさを感じることもありました。でも今は、見えるからこそ孤独になりにくかったり、何かあったときに助け合えたりするんだなって思います。生きづらさもあるけど、この感じも嫌いじゃないなって」

人と人がゆるやかにつながる時間も、樗木さんが大切にしている風景です

種子島で、もう一度つながっていく

Uターン後、島で暮らしながら見えてきたのは、景色や観光資源の魅力だけではありませんでした。そこにいる人たちが、それぞれの場所で、想いをもって活動していること。けれど、その想いを言葉にしたり、発信したりする機会は、意外と多くないこと。

 

そんななかで、樗木さんが続けていたインタビューやライティングの仕事も、少しずつ形を変えていきます。

単に記事を書くのではなく、起業したばかりの人や、地域で活動する人の話を聞きながら、その人の思いや事業の輪郭を一緒に整理していく。プロフィールを書いたり、言葉を整えたり、ときには伴走するように関わったり。

 

「インタビューすること自体が、その人と向き合う時間にもなっているなって思うんです」

 

都会で培ってきた“発信”や“言葉を整理する力”が、Uターンを経て、島のなかで別の形でつながり直していった。

それは、樗木さんにとっても、自分の仕事をもう一度捉え直す時間だったのかもしれません。

人の想いを言葉にする仕事が、島での暮らしのなかでもつながり続けています。

〖後編へつづく〗

次回は、樗木さんが今取り組む「種子島たからつむぎ」について、そしてその活動の先に見ている“オール種子島”の未来について、さらに深く伺っていきます。